『国が認める「特定疾病」の介護保険』移行問題の話

こんにちは。くるまりすblogの筆者です。

 障害者総合支援法の重度訪問サービスを受けて生活している私は、自分に起こった問題を、その都度調べたり制度に詳しい人に聞いたりしますが、この【国が認める特定疾病】の介護保険移行問題については、調べても、制度に詳しい人に聞いても、簡単には解決しませんでした。私が経験した事を例に、私が問題解決に向けて取った行動や考えを書いて行きます。

【私の病気と「介護保険における特定疾病」との関係】- 私の疾病は子供の時に発症するリウマチです。厚生労働省の政策で関節リウマチは「特定疾病の選定基準の考え方」の「特定疾病の範囲」に入っています。これが国が「特定疾病」と認めた疾病ということです。
私の場合は、40歳以上65歳未満の2号被保険者が介護保険を申請できる疾病に入ります。

● 厚生労働省「特定疾病の選定基準の考え方」 https://www.mhlw.go.jp/topics/kaigo/nintei/gaiyo3.html

【私の症状】- 子供の時に発症し、全身の痛みと関節の変形によって19歳で歩けなくなりました。現在は重度の障害に分類され、「障害者総合支援法の重度訪問サービス」を受けて生活しています。
 リウマチは医学的に未解明で、進行したら元には戻らないと言われています。
現在は良い薬ができていて、初期であれば症状を止めることが出来るそうなので、最近は重度化する人は減っているようです。年齢が若いほど重度のリウマチは少ないかもしれません。

【障害者総合支援法の重度訪問サービスを利用】- 私の場合、「障害者総合支援法の重度訪問サービス」を知るまでに時間がかかりました。インターネットが普及していない時代に障害を負った事と、始めの頃のインターネットで得られる情報には限りがあったので、インターネットで調べる事は思いつきませんでした。
 今はインターネットで沢山の事が調べられる時代になったんだなぁとしみじみ思います。
 私が知った頃というのは、制度の名前が変更される前で、その頃の制度名は「障害者自立支援法」でした。当時は国の方針で「障害者自立支援法」と「介護保険」を合わせて、「介護保険」に統一したい思惑があるとの話もあり、申請しても受けるのが難しかった印象があります。
 現在になっても「障害者総合支援法」は何故か世間に知られていない印象を受けます。新聞やニュースでも「介護保険」の言葉は良く聞きますが、「障害者総合支援法」についてのニュースが流れた事があったか思い浮かびません。
 重度障害者が家族に頼らず生活をするには、「障害者総合支援法の重度訪問サービス」は必要な制度です。私は正式な手続きをし受給していますが、受給者の多数である脳性麻痺や筋ジストロフィー等と比べて「重度訪問サービス」を受ける関節リウマチは少数派です。少数派だと制度を受給できるかどうか、医療機関や自治体には判断しにくいかもしれません。

【市から介護保険に移るように言われた時の事】- 40歳の誕生日の少し前だったと思うのですが、突然市役所から電話があり、「今から受けられる制度に移行できますので、市役所まで来て手続きをしてください」ということを言われました。
 担当の新人女性職員と男性職員、男性の課長の3人に個室に呼ばれ、新人女性職員から私に「介護保険に移れますよ。良かったですね。」と言われました。
 主に話していたのは新人の女性職員でした。職員は手続きの書類を差し出し、署名と印鑑を求めて来ました。
 私は介護保険が私の障害に合わない事は知っていました。「介護保険では私は生活できません。」と答えると「移らなければ法律違反」と言われました。2人の男性職員は黙ったままでした。無言の押し問答の末、ひとまず「書類に署名するのは良く考えてからにしたい」と答えると家に帰ることが出来ました。

【相談する所がない】- 最初に制度に詳しい人達に相談しました。
 沢山の障害者の相談を請け負ってきたはずの障害者職員にも、「これまでなかったケース」と言われました。
 制度に詳しい他の人達や、インターネットや市の冊子を調べて障害者が相談出来る全ての相談窓口に相談しましたが、全ての所から「どうしたらいいか分からない」と言われました。
 厚生労働省にも電話で問い合わせましたが、「判断は市区村町に任せています」との返事でした。

【障害者相談員からの提案】- CIL(障害者自立協会)の相談員から「一部だけ介護保険を受け入れたらどうか」との提案がありました。
記憶では、「一部介護保険にした生活では、一月分の介護保険を使った後から重度訪問を利用できる」ことや、「将来的に介護保険がだんだん多く適用される可能性がある」という話だったと思います。
 一度介護保険に移れば、重度訪問に戻るのは困難です。
 介護保険の時間は介護保険のヘルパーを利用し、重度訪問の時間は重度訪問のヘルパーを利用すると言う事ですが、介護保険のルールと重度訪問のルールは全く違うので、一月の間に2種類の生活を送らなければならなくなります。
一部を受け入れるのも選択肢の一つですが、出来る限り避けたいと思いました。

【市の動き】- なぜ市から私に介護保険に移行するように言われたかですが、①年齢のことと、②普段なら市役所から私宛に書類が届くのですが、私が知らない間に私の主治医宛に市役所から私の診断の記入用紙が届き、主治医は診断書を書いて送り返したそうです。
 主治医に、私が介護保険に移行するように市から言われて困っていると相談すると、すぐに市役所に抗議の電話をかけてくれましたが、役所の方針は変わりませんでした。
 もし障害のある人で、国が認める特定疾病に当てはまるのなら、40歳と65歳の節目に注意をしておいた方が良いかもしれません。

【市の対応】- その間も、何度か市役所の個室での話し合いがあり、「サインしなければ、今受けているサービスを全部取り上げますよ」と言われました。
 市の職員にそんな権限があるのか分かりませんが、それでも書類は書かずに帰り、日々重度訪問サービスを止められていない事を安堵する生活を続けました。
 本来なら誕生日の翌月から利用できる重度訪問サービスの受給者証を受け取り、1年間重度訪問サービスが受給出来るのですが、話し合いに3か月弱かかったので、その間、受給者証は発行されませんでした。措置的に1か月毎の重度訪問サービスを受けられました。

【私の対策】-  重度訪問と介護保険は、本人が申請して受けられる制度です。
私は重度訪問の申請をして、申請が通り、利用していました。
 市が「介護保険を利用しなければ法律違反」と言う時でさえ、市は私に介護保険を書類で申請するように求めて来ました。私が重度訪問を受給する事が法律違反なのか、それとも介護保険を利用しない事が法律違反なのか、どちらの事を言われたのか分かりませんが、役所の知識や対応が必ずしも正しいとは限らないと思っています。
 納得いかなければ、きちんと話し合う事や、自分で調べて確認したり、妥協したりせず、安易に書類に署名しない事が大事だと思います。
 経験上、役所との話し合いは録音した方が良いと判断したので、2回目の話し合いからは会話を録音するようにしていました。

【制度の実情】- 制度を施行するかどうかや、制度をどう判断するかは、都道府県や市区村町に委ねられている部分があるように感じています。大まかには国が決めた制度の中で都道府県や市区村町によって施行されているのですが、制度に詳しく書かれていない判断が微妙な部分は、都道府県や市区村町が独自に判断するのだと思います。
 因って、同じ制度でも、都心部や地方によって制度が存在したり、しなかったりと違いがあります。
 また、サービスを提供する都道府県や市区村町が、制度を理解していない場合があります。私の場合は、ここに問題があったのではないかと思っています。

【解決した時の事】- 市役所の広報誌には制度の事が書かれているので、見落としがないか調べていると、「市民相談・オンブズパーソン」について書かれていました。「行政相談の窓口」と書かれていることもあるようです。市政についての苦情を申し立て出来る、民間から委託された相談員で、弁護士・税理士・司法書士・宅地建物取引士・行政書士・社会保険労務士などがいるそうです。

● 総務省 行政相談 https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/hyouka/soudan_n/soudan_uketuke.html

  電話をかけて相談すると、「訴えるかどうか」の確認をされ、「訴えるつもりはない」と、一先ず答えました。福祉課に直接話してくれたとの電話連絡の後に、福祉課から電話があり、「これまで通りで良いです」と言われ、それまでと変わらず重度訪問サービスで生活が出来るようになりました。2年毎に見直すという条件が付きましたが、その時の担当職員によって対応が変化しました。

【全国で起こっている問題】-  介護保険における国が認める特定疾病の制度は、それまで制度を利用できなかった人達や、介護保険が必要な人にとっては、条件に当てはまれば介護保険を利用できる可能性があるという意味で必要だと思いますが、必要ではない人に強制的に利用させるものであってはならないと思います。
 逆に、必要なのに利用出来ない可能性もあります。

 ある障害者相談員から聞いた話では、私に起こった問題のように重度訪問から介護保険に移行するように市から強要されるのは「国が認める特定疾病」では時々起こる問題で、全国で裁判が起こされ、訴えた障害者の側が勝っているケースが多いと聞きました。
 年齢が上がるほどに、良くも悪くも介護保険が適用されやすかったり、地方や市区村町によって、受けられる制度が違ったりすることがあると思います。

 以前出会った車椅子ユーザーの方が、制度の利用が出来なくなる危機に直面する人達を支援する活動をしていると聞きました。その人が、丁度支援に向かっていたのは、1か月毎に役所に制度を続けて利用できるかどうかの審査を受けに行かなくてはならない人でした。
 毎月、自分の生活する制度が取り上げられるかもしれない環境を体験している人がいるのですが、その人たちが何か問題を起こした訳ではなく、役所がそういうように制度の解釈をした場合に、時々起こる問題だと思います。このようなケースは知られることはありません。人知れず受けられるはずの制度を受けられるように、話し合いをしている人達が、少なからずいるのだと思います。

【参考】- 
● 厚生労働省「特定疾病の選定基準の考え方」 https://www.mhlw.go.jp/topics/kaigo/nintei/gaiyo3.html

● 総務省 行政相談 https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/hyouka/soudan_n/soudan_uketuke.html

おわりに

「くるまりす」と「解説」を書くにあたって、昔の日記や書類、写真などを元に、出来事を年代ごとに書き出すところから始めましたが、一つの出来事を短い物語と解説にするためには、出来事を取捨選択しなければなりませんでした。
タイトルごとに短くまとめた出来事の他に、いくつかの出来事が同時に進行しています。「くるまりす」と「解説」に書けなかった出来事には、人生を左右した出来事が含まれています。

言葉をシンプルにして書くことで、表面に浮き出てきたモヤモヤした感情がありました。モヤモヤした感情というのは、これまでは、どう伝えて良いのか分からなかった思いだったり、周囲の人に遠慮して抑え込んだままにした気持ちだったり、社会的少数者の考えと感じる事だったりと色々です。元々「くるまりす」と「解説」だけではなくて、それをきっかけに、障害者自身でも中々語れなかったことを書いて行きたいと考えているのですが、「くるまりす」と「解説」をシンプルな言葉で書くために、ふさわしい言葉を探すことは、自分の本音を探らなければならないことでもありました。

何が、これまでの自分に向き合えない原因だったか、自分をうまく表現できない原因だったか、どうしてうまく言葉で語れなかったかを、自分が納得いく答えを求めて、自分の本音を理解するということを、何十年分か一気にした感じです。


改めて「くるまりす」と「解説」には書けなかったことを書きたいと思いました。私の体が弱り始めたころからのことを書く中で、書けなかったことが、ずっと感じていた違和感でした。「くるまりす」と「解説」を書いたことで、違和感やモヤモヤの解釈が出来たように思います。

人とは違う人生を送って来ただけ、と良く自分に言い聞かせますが、違和感やモヤモヤに対して使う言葉でした。でも、人とは違う人生を送ってきたことが、誉め言葉になる方法があるように少し思えてきました。

「到着~生活編」の解説

【到着】- 障害者自立支援協会からのアドバイスを受けて、部屋探しを始めたけど、車椅子と聞くだけで部屋を借りるのを断られて、中々部屋を借りられなかった。利用できるはずの制度でも、役所から利用させてもらうのが大変だったり、制度を知らなければ利用させてもらえなかったりして、もし、手伝ってくれる人がいなければ、生活を始めるのは難しかった。

【新しい生活】- 生活が始まると、毎日何人もヘルパーが来て、興味津々で部屋を覗かれて、噂話をされた。生活を見られたくなくて、テレビが見られなくなって、インターネットもメールも電話も出来なくなった。何人か、仲の良いヘルパーができて、私を一人の人として扱ってくれた。わがままだと思っていたのにわがままじゃないと言われて、優しくないと思っていたら優しいと言われた。行きたいところに行けるようになって、好きな物を買うことが出来て、食べたい物を食べられるようになって、やりたいことが出来るようになったことが幸せに感じた。少し普通の人に戻れた気がしたけど、普通じゃない生活だと感じた。

【服の教室】- 服のコーディネートの勉強に通うと、障害者に会ったことがない人ばかりだった。社会に関われなかった私は、共通の話題がなかった。教室まで送ってくれたヘルパーの話を、皆が面白がって聞きたがると、私は皆と話せなくなって、どうやって馴染んだら良いのか分からなくなったから、誰も教室には着いて来ないようにした。毎日プレゼンさせられると、あがり症だったのに、人前で話せるようになった。学校で教わるコーディネートの仕事は、体に障害があると難しかった。

法律違反】- 市の福祉課から、利用している障害者の制度を辞めて、介護保険へ移るように言われて、「移らなければ法律違反」とも言われた。私の体で介護保険を利用すると、生活は出来なくなる。調べると、私の障害は、国が認める特定疾病にあたり、介護保険が優先的に適用されると知った。相談できる所、全部に相談して、厚生省にも電話したけど、力になってくれる人はいなかった。市役所に民間から委託された弁護士がいると知って、相談すると、弁護士が福祉課に話してくれて、福祉課から「これまで通りでいい」と連絡があった。国が認める特定疾病に該当する人が直面する事が多い問題で、全国で裁判が行われて、原告が勝訴しているケースがあるとの事だった。

【服の本】- 人に似合うファッションを診断する本を知って、夢中で読んで研究した。診断から似合うファッションを選ぶことが出来たら、体に障害がある人にも負担なく服を選ぶことができるかもしれないと思った。障害がある人は、体のサイズを測れなかったり、お店の服を見比べる体力がなかったり、お店で服を試着する場所がなかったり、試着する体力がなかったりして、また振り出しに戻った。

【先生のこと】- 体が不自由な人の服の講座で、先生と出会った。障害者の私に、参加者の前で話をするように言われて、障害者として生きてきた話をすると、参加者から私に相談をされた。それまでわたしの話を重要そうに聞く人がいなかったので、不思議な気持ちだった。先生は、国際福祉機器展でプレゼンの場を用意してくれた。障害を負った事から、自分の体や内面に感じていたコンプレックスをテーマに、障害者と障害者が、モデルとコーディネートをした成果発表した。貴重な試みという事だったけど、福祉の業界に影響はなかった。

【見えない壁】- 起業したい女性が学ぶ講座に参加した。私は、その場に受け入れられていない雰囲気を感じた。一人の講師が私の目標から、障害者の会社を作るチームを作ってくれた。一般の人が思い描く障害者の印象と、現実問題のギャップは、言葉で伝えるのは難しくて、誰にも伝わらなかったように感じた。講師の一人に「自分だったら障害者なんか雇わない」と私が言われていても、誰も関心がないようだった。

【ウサギの家族】- 年を取ったウサギを預かることになった。私の体では世話出来なくて、ヘルパーには動物嫌いやアレルギーの人が多くて、頼める人は少なかった。ウサギと生活するために、短時間の仕事を探したけど、車椅子だと断られたり、雇ってもらえなかったり、障害者の就職先はフルタイムの仕事しかなくて、断念した。動物は簡単に死なないと言うヘルパーが、ウサギにしてはいけない事をした。そのヘルパーが入った夜、突然ウサギの下半身が動かなくなって、病院を回ったけど、何もできないまま死んでしまった。あの時、もっと注意していればと思った。泣いて障害がある体の自分を責めて、ヘルパーをどう許したらいいのか分からなかった。

【ダンス】- 福祉の展示会に行って、ダンスをするための白い車椅子を見ていると、ダンスに誘われた。ダンスをしようと思ったことはなかったけど、他に行く場所がなかったから行った。障害者と障害がないダンサーが一緒に踊る、インクルーシブダンスだった。ここでは私を一人の人として扱ってくれるようで、受け入れてくれる感じがして、私がいてもいい場所のように感じた。

【できること】- ダンスの舞台に立つと、ずっと連絡できなかった人に連絡できた。
何かできることがあるって、嬉しいと思った。

【できないこと】- プロのダンサーたちと共演する舞台に選ばれた。私の体では出来ないことも自分でやらないといけなくなった。「好きに踊っていい」と言われたけど、踊り方が分からなくて、頭がしびれて、頭に空気が入らなくなって、考えられなくなった。なかった自信が、もっとなくなった。踊れているのか分からなかったけど、必死で笑顔を作った。もう、いられなくなった。

【迷惑】- 舞台が終わってからの数週間、頭も、体もしびれたまま、起き上がれなかった。ファッションの仕事を手伝う日までに、充分日にちがあったはずなのに、責任感で手伝った仕事は、事前の準備が殆ど出来なくて、まともに仕事が出来なくて、迷惑をかけてしまった。私の体力が戻らなくなっている事に、しばらく気が付かなくて、体の変化が分からなくて、何の約束も出来なくて、どう説明したら良かったのか分からなかった。ずっと、体や心の事を理由に断るのは、言い訳だと思っていた。頑張れば乗り切れると思っていたけど、頑張っても役に立たなかった。障害を言い訳にしていると言われることが怖かった。

【良くある平行線】- 介護服の社長は、服の事を知らなくて、障害者の服を作る手伝いをして欲しいと言われたけど、私の経験や、勉強したことを話すと平行線になった。社長と私の話を聞いてヘルパーが突然、妥協案を叫ぶと、社長は喜んだけど、それは障害者の服ではなかった。社長とは続けて仕事ができなかった。ヘルパーがした事は、ヘルパーの仕事ではなかった。
社長との間で話したことは、障害者の服の問題で、良くある平行線だと先生から聞いた。でも社長との間で起こった事は、私の社会経験がないからなのか、私自身に問題があるからなのか、私に障害があるからなのか、他の原因があるのか、分からなかった。

【初めて踊れたこと】- 新しく参加したダンスで、舞台に立てる事が決まった。
一緒に舞台に立つ人は、皆すごく踊れた。「好きに踊って」と言われると、急に頭がしびれて、頭に空気が入らなくなって、怖くなった。
初めて、私の体で踊れる振り付けを考えてくれて、踊れるようになるまで待ってくれた。言葉が出せるまで話してくれて、話せるようになった。欠点でしかなかった動かない体で踊った作品を見て、泣いてくれる人達がいると知った。舞台で初めてダンスを踊れたように感じた。踊ることが楽しくなった

【当事者と理解者】- 国際福祉機器展で一緒にプレゼンした先生と、友達と3人で、食べ物をうまく飲み込めない人が、おいしくご飯を食べるための本を作ることになった。当事者が本を出すのは大事なことだけど、世の中では専門家という、当事者ではない人の意見の方に価値があるようだった。福祉で使われている言葉は、当事者を差別する言葉になる事があって、当事者が過去を振り返るのは、差別を感じる言葉や、実体験に向き合わなければならない大変な事でもあるけど、当事者だからこそ、自分が生きる幸せを感じるための食事の話を本にするのは、たくさんの意味があると思った。考えることがたくさんあって、楽しいと思った。

【パンデミック】- 世界中に感染症が広がると、両親に勧められて、実家に帰ることになった。私にも心配してくれる人がいたと感じた。昔の記憶がたくさん浮かんだ。いいことだけではなかった。引っ越さなければならなかった理由がたくさん浮かんだ。悲しかったことばかりに感じた。浮かび続ける記憶を書き溜めた。書き留めても浮かばなくなるのは無理だった。
地元のヘルパー事業所は、東京から戻った私を、感染してないかと怖がった。その頃は、熱がないと検査が出来なくて、保健所や病院に電話をして指示に従った。久しぶりに会う皆や家族と、昔の生活に良く似た生活をして、昔のように話した。懐かしさと、ずっと、ここに居たかった気持ちと、居られなかった気持ちと、取り返しがつかない事があることを、考えていた。

【昔の景色】-妹が実家に戻って来て、両親と妹と年を取った犬と一緒に過ごすと、長い時間が経ったと感じた。悪い事だけではなかったと思えるようになって来た。妹と土手を歩くと、外来種の花が鮮やかに咲き広がっていて、川の淵を埋め尽くして揺れる草の波風にあたりながら、隠れて鳴く大勢の鳥と、虫の声と、風の音を、すぐ近くで聞いた。綺麗だった。
家から遠くない場所なのに、昔、私の足が痛くなったから、歩くのが億劫になって、まだ通った事がない道があると気付いた。電動車いすで初めて通る道には、子供の頃に遊んだ素朴な植物と殺風景な景色があって、土手の植物や生き物と野良犬と遊んだ記憶が溢れて、胸が締め付けられて止まらなくなった。あの頃の私は、土手の下まで降りる事が出来た。時間が止まったような場所に、私の電動車いすがあるのが不自然だった。

【暗いトンネルの中のこと】-約20年前から、経験した事を書きたいと思っていた。私の経験は、誰かの役に立つかもしれないと思っていたけど、思い出すと、泣いてしまうような思い出だったから、思い出すのが怖かった。前よりも少し、泣かずに話せるようになった今、私の中で外に出たがっていた沢山の過去を、そろそろ外に出してあげたいと思っていた。昔の記憶が溢れ出て書き留められて行くと、何年も前に大きなリスに姫だっこされる女の子のイメージをスケッチした事と繋がって、ノートパソコンで大きなリスに姫だっこされて歩く女の子の絵を描き始めた。まりすちゃんと言う女の子に、絵本のように語ってもらう事を思い付くと、私は自然と解説者になった。この物語が終わっても、書かなければならないことが沢山あるから、きっと、思い出すのも辛い過去の経験との対峙は、まだ続くんだろうと思う。

くるまりす「到着~生活」編

【到着】- 小さな子供を連れた、大きな歩くイスに乗っている女の人がいた。
「あなたの子?」と聞くと「ひとりでわたしの子を育てているの」と答えた。
その人が住んでいる町には、大きな建物が、たくさんあって、歩くイスと、歩けない人と、歩く人が、たくさんいるのに、門がなかった。
「この町に住んでもいい?」と聞くと、「自由に住めばいいよ」と言われた。
住む方法を教えてくれたけど、住む場所をさがす所でも、ヤクショという所でも、住ませてもらうのが大変だった。

【新しい生活】- ヤクショの決まりで、うまく動かない体の人は、うまく動かない体を助けてくれる、ヘルパーという人たちを、おおぜい、見つけなければならなかった。
その人たちは、わたしと、くるまリスの住む家に毎日来て、いつも、わたしのそばにいて、おもしろそうに家の中を見て、おしゃべりして、どこにでもついて来た。
わたしは、友だちに会えなくなって、笑えなくなった。

【服の教室】- 似合う服を着られるようになると、やさしい人や、話してくれる人が、ふえたから、似合う服をえらぶ勉強をして、歩けない人や、困っている人に、教えてあげたかった。
教室にいた人たちは、くるまリスや歩けない人に会うのが初めてで、わたしも「くるまリスや歩けない人に初めて会う」と言う人に初めて会った。
わたしもみんなも、どうしたらいいか分からなかったのに、わたしだけが、どうしたらいいか分からないことを叱られた。
先生だけが人をきれいにできて、こっそり呪文をとなえる魔女のようだった。

【ホウリツイハン】- ヤクショから、「あなたは歩けない人の仲間じゃないから、あなたの体をヘルパーに助けてもらうのはホウリツイハン」と言われた。
どうして仲間じゃないと言われるのか、聞いても分からなかった。
大きな歩くイスのえらい人や、たくさんの人に聞いたけど、「ヤクショから言われたら仕方ないよね」と言われた。
いつからいたのか、ヤクショで灰色に光るヘビが話しかけてきて、「あの人に聞いてごらん」と男の人を見た。いつの間にか、ヘビは消えていた。
男の人は、ホウリツを良く知っていて、話を聞いてくれた。
ヤクショに「ホウリツイハンじゃない」と話してくれたら、ホウリツイハンじゃなくなった。
法律違反」「国が認める特定疾病移行問題

【服の本】- 服の本を読むと、世界には色んな人がいて、それぞれ似合う服があって、好きな服がちがって、性格がちがった。色んな人の似合う服を考えて、服の話をすると、服を好きな人たちが、色んな服の話をしてきて、色んなことを話した。
歩けない人たちが動けなくても、似合う服を教えてあげられるかもしれないと思った。

【先生のこと】- わたしと、くるまリスを見た女の人が、うれしそうに、わたしと、くるまリスに話しかけてきた。
わたしと、くるまリスの話をすると、とても喜んだ。
女の人は、体がうまく動かない人たちのことを研究している先生だった。
わたしと、くるまリスのことを、おもしろがる人に初めて会った。
わたしも、先生がおもしろくて、仲よくなった。

【見えないカベ】- カイシャをつくる勉強をする所には、歩く人しかいなかった。
歩く人たちが遠くから、わたしを見ていた。
「歩けない人は来てはいけない」なんて、だれにも言われなかったのに、来てはいけなかった所のように感じた。
「がんばって」って言ってくれる人が少しいたから、がんばった。
「がんばってもムダだよ」と言う人がいて、遠くから見ている人たちの目は、冷たかった。
くるまリスの目が、するどくなっていた。

【ウサギの家族】- おじいちゃんウサギが、家族になった。
ウサギは、うれしいとき、足もとをクルクルまわって、怒るときは、ダン、ダンと後ろ足で床を叩いた。
長く一緒に、いたいと思った。
わたしが、できないかわりに、何人かのヘルパーが、わたしの言うとおりに、ウサギの世話をした。
わたしの言うことを聞かないヘルパーもいた。
ウサギは死んでしまった。
ヘルパーのしたことは、わたしの責任だった。
言うことを聞かないヘルパーのしたことは、わたしがしたことなんだろうか。
泣いても、泣いても、自分を責めて、考えても、考えても、ヘルパーを許せる考えが浮かばなかった。

【ダンス】- ダンスをするイスを見つけた。
次の日も見た。
「あなたもダンスをしてみたら?」と言われた。
わたしは、ダンスをしたいと思ったことがなかったけど、ダンスをする所に行った。
くるまリスは、ダンスを初めて見たみたいだった。
くるまリスは、小さな子供に、「高い、高い」って、あやすみたいに、わたしを天井にむかって、だき上げた。
くるまリスが、なんだか楽しそうだった。
ダンスが踊れなくても、いいと言われた。
ダンスは分からないけど、踊った。
くるまリスは、わたしを両手で持ち上げて、一緒に踊ってくれた。
みんなと一緒に踊れて、楽しかった。
「ここにいてもいい」って、言われているみたいな気がした。

【できること】- 偶然、さようならできずに、会えなくなった人に会った。
「夢は、叶ったか」と聞かれた。
「今は、踊ってるよ」と答えた。
ダンスの舞台に立つことが、手紙になった。

【できないこと】- ダンスが踊れなくてもいいと言われたけど、それではよくないみたいだった。
分からないで踊っているのに、「それでいい」と言われても、踊れている気がしなかった。
頭がしびれて、頭に空気が入らなくなって、ひとりになったみたいだった。
「最後まで踊ろう」って、くるまリスが言っているみたいで、大きな舞台で最後まで踊ったけど、頭は、しびれたままだった。
ここには、いられなくなった。

【迷惑】- 人の服を探すのは、体力がなくて、たくさん行けない場所があって、たくさん、できないことがあって、経験が足りなかった。
うまく説明できずに、迷惑をかけてしまった。
わたしの体は、自分で思っていたよりも、ずっと弱かった。
頭がしびれたまま、戻らなくなってしまったことに気が付かずに、迷惑をかけてしまった。

【よくある平行線】- うまく動けない人のための服をつくるのを、てつだってと頼まれた。
カイシャの社長は、みんなが着られる服を作りたがった。
うまく動けない人は、ちがう体や病気だから、みんな同じ服は着られないと話したら、社長は怒った。わたしが、いけなかったのか、誰がいけなかったのか、分からなかった。

【はじめて踊れたこと】- 新しい所で踊れることになった。
一緒に踊る人たちは、とても上手で、わたしだけ踊り方が分からなくて、頭がしびれて、頭に、空気が入らなくなって、こわくなった。
初めて、くるまリスと一緒に踊る方法を教えてくれて、動かない体でも踊れるように考えてくれて、踊れるようになるまで待ってくれた。
体に空気が入っていくみたいだった。
初めて、踊れたように感じた。

【当事者と理解者】- 体がうまく動かない人たちのことを研究している先生と、チューリップみたいな歩くイスに座っている友だちと一緒に、うまくごはんを食べられない人が、おいしいごはんを食べられるように、本を作ることにした。先生は、楽しそうで、友達は、おいしいごはんを作れて、わたしは、文章を書くのが好きで、三人で話していると、楽しかった。

【パンデミック】- 世界中が暗いトンネルの中に入ってしまったようになって、世界中のみんなが外に出られなくなった。
お父さんが心配してくれた。お父さんとお母さんの家に帰った。
家に帰ると、真っ暗なトンネルの中にいた時のことを、たくさん思い出して、真っ暗なトンネルの中に戻ったみたいに感じた。
門の中の人たちに会った。
門の中の人たちは、わたしを怖がった。
わたしを覚えていてくれた人たちが、遠くから話しかけてきた。
門の中の殆どの人たちは、昔と変わらなかった。

【むかしの景色】- 妹も帰ってきた。
わたしは、くるまリスの腕に乗って、妹と一緒に、日の光がまぶしい土手を歩きながら、花が風にゆれるのを見て、草の間を走った子供のころを思い出した。
今はもう、トンネルの外の森は消えてしまったみたいで、くるまリスは遠くを見ていた。
くるまリスの指を、ぎゅっと、にぎった。
前よりも、少し変わった家族と、前と同じような生活をした。
今は、トンネルの出口が近いような気がした。

【暗いトンネルの中のこと】- 
暗いトンネルの中にいたことを、たくさん思い出した。たくさん泣いていたことを、たくさん思い出した。暗いトンネルの中の記憶は、生きものみたいに動きだして、暗いトンネルの中の暗い所をさがしていた。暗いトンネルの中の生きものたちは、わたしが生んだ生きものたちだった。かわいそうに、泣いていた。
暗いトンネルの外にいる、わたしと、くるまリスの絵を描いた。
昔、くるまリスによく似た、リスの絵を描いたことを思い出した。

くるまりす「発症~出発」編

【病気】- 子供のとき、病気になって手と足が痛くなると、走れなくなった。
飛行機にのって、遠いところに入院させられた。
初めて、わたしと同じ病気の人を見たら、痛そうで、こわくなった。
治りょうが嫌で、さみしくて、やせて、風がふいたら、ふらふらした。
退院が決まると、薬を飲まされて、家に帰ったら、薬のせいで、すごく太っていた。
太ったわたしを見られたくなくて、友だちと話せなくなった。

【弱っていくこと】- 恋したらやせた。でも足がもっと痛くなって、歩くのが遅くなった。
絵や、物つくりの勉強にでかけたところは、おおぜいの人がいて、みんなが忙しそうだった。
大きなヘビのお腹に、おおぜいがギュウギュウに入ると、ヘビは鳴きながら動いた。
わたしもギュウギュウに押されて、肩も背中も痛くなった。
力が入らなくなって、ゆっくりにしか歩けなくなったことを、友だちに話したら、「もっと、がんばればいいのに」と言われた。
いつも通りの朝に、一瞬で夕方になって、とまどった日があった。「うそつき」と言われた。
友だちをやめた。
ひとりで勉強だけした。
歩けなくなったけど、歩けなくなって、よかった。

【歩けなくなること】- 社会人になったり、自分のお金をはらったり、社会の決まりを知ったり、結婚はまだかと言われたりするのは、大人の仲間だからだと分かった。
わたしは、大人の仲間に入れてもらえなかった。
大人になる前に、仲よくしていた子たちは、歩けなくなったわたしのことを、仲間にするのをやめたんだと思った。
体中がいたすぎて、泣いていたら、もっと仲間に入れてもらえなくなっていた。

【トンネルの中】- いたくて、ねたまま、うごけなくなって、まい日、ないていたら、うまく考えられなくなって、まっくらなトンネルの、まん中に、おいて行かれたみたいだった。
お父さんとお母さんは、かなしいかおや、こわいかおをして、ごはんを、はこんできた。
わたしは、くらいトンネルの中の生きものになったみたい。
くらいトンネルの中の生きものは、きたなくて、くさくて、かなしそうにみえた。

【笑うこと】- ある日、だれかに、「わっ」と、おどろかされて、びっくりして笑った。
わたしが笑ったら、お父さんとお母さんが、おたがいの顔を見て、うれしそうに笑った。
お父さんとお母さんが、よろこぶと思って、笑うれんしゅうをした。
笑うマネをしていると、どこからかリスがきて、いっしょに笑うマネをした。
わたしが笑うマネをするのを、リスがマネして笑って、わたしもリスが笑うマネをするのをマネして笑って、いっしょに笑うマネをしていたら、おもしろくなって、ほんとうに笑えるようになって、まい日、いっしょに、たくさん笑った。
気がついたら、少し体が、いたくなくなっていて、リスは、かくれてしまって、四本足の歩くイスをおいていった。
歩くイスは、わたしをイスのひざに、すわらせてくれた。

【好きなこと】- えんぴつを見つけたけど、えんぴつを、うまく持てなくなっていた。
紙に、えんぴつや、本や、まどや、さくらんぼの絵をかいたら、だんだん手が動くようになった。
リスの絵をかいたら、いつのまにか、絵の上に、いろんな形のタネがころがっていた。
タネをまいたら、たくさん花がさいて、太陽の光があたって、きれいで、トンネルの外みたいだと思った。
たくさん、花の絵をかいた。

【インターネット】- トンネルの天井から、クモの巣にかかっている人が話しかけてきた。
クモの巣の人は、歩くイスの四本足と、わたしの二本足を見て、「クモのなかまだね」って言うと、木の枝にかけた光るクモの巣をひとつくれた。
くらい所でも光が当たっているみたいで、糸のすきまから、たくさんの文字がうかんで、ながれて行くのを見ていると、「それは、なかまの言葉だよ」って教えてくれた。
文字にさわると、わたしの言葉になって、指ではじくと、ちがうだれかの言葉がもどってきた。
みんなが、いっぱいおしゃべりしてくれて、楽しくなった。

【インターネットの友だち】- ひとりが、わたしに会いたいと言って、会いに来てくれた。
でも、くらいトンネルの中の、わたしを見て、がっかりされた。
ふたり目が、友だちをつれて会いに来て、みんなでわたしと、歩くイスを車にのせて、あそんでくれた。どうして、わたしに、がっかりしないのか、ふしぎだった。
糸のすきまから、うかぶ文字じゃなくても、少し、おしゃべりできるようになった。

【人に会うこと】- 歩くイスは、わたしを、ひざにのせて、歩いてくれた。
つれて行ってくれた所で、はじめて、ほかの歩くイスに会った。
歩くイスにすわっている人と、おしゃべりすると、いっしょに歩く人も、話しかけてきた。
歩くイスと、歩くイスにすわっている人と、歩く人に、また会ったとき、ほかの歩くイスと、歩くイスにすわっている人と、いっしょに歩く人が、話しかけてきた。
会う人がたくさんになると、みんなが、いろんな所に、つれて行ってくれた。

【たくさんのカベ】- トンネルの中で仕事をする人から、「自分で歩けない人が、とおる道はないよ」と言われて、とおせんぼされた。
トンネルの中をとおる人も、「自分で歩けないから、道がとおれなくても、しかたないよね」と言った。
トンネルの中で会った、やさしい人が、いっしょに道をさがしてくれて、なかなか、すすめなかったら、ゆっくり待っててくれて、友達になってくれた。
仲間のひとりが結婚の話をしてきたけど、道が、とおれなければ結婚できないと思った。

【カギをにぎる人】- 歩くイスにすわった仲間の中に、カギをもった歩く男の人がいた。
男の人は、「門番をしている」と言った。
門番は、たくさんの歩くイスと、歩くイスにすわっている人がいる所を知っていて、歩けなくても、道をとおる方法を知っていて、そこに行くカギを開けられると教えてくれた。
「わたしも、つれてって」と、おねがいした。
門番がカギを開けると、門の中には、たくさんの歩くイスと、歩くイスにすわっている人と、歩く人がいて、わたしを仲間に入れてくれて、話をたくさん聞いてくれた。
仲よくなった人ができて、色んな人と話せるようになって、行きたい所に行けるようになって、できることや、やりたいことがふえて、すごく楽しかった。

【くるまリスのこと】- 仲よくなった人から、「くるまリスがいる」って聞いた。
トンネルの中で仕事をする人が教えてくれた、くるまリスは、考えごとばかりしていて、仲よくなれなかった。
歩くイスが、連れて行ってくれた森で会った、くるまリスは、なつかしいかんじがして、歩くイスと仲よしだった。
くるまリスは大きくて、わたしを姫だっこして遠くまで歩いてくれた。

【出発】- 門の中も暗いトンネルの中だった。
門の中の人は、門番がいなければ外に出られなくて、外に出るのをこわがった。
くるまリスはカギを開ける方法を知っていて、わたしは門を出たり入ったりできるようになった。
ずっと、ここにいたかったけど、やさしくない人が増えて、追い出されるようで、出ていくしかなかった。

「発症~出発」編の解説

【病気】- 小学生の時に右手中指から若年性関節リウマチを発症すると、「年寄りの病気」とからかわれて、病名を言えなくなった。すぐに両手首と両足首の関節に進行し入退院をした。
卒業式の日に飛行機に乗って入院して、冷凍庫で体を冷やす治療をした。方言が違ったり、習慣が違ったり、私はとても子供で、寂しくて10キロ痩せた。退院が決まると薬を飲まされて、薬の副作用で急に25キロ太ったことが、受け止められなかった。地元の中学に通うと、私だけ太って、制服を着てなくて、入院中に短く切られた髪が恥ずかしくて、友達と話せなくなった。

【弱っていくこと】- 高校に通うと痩せた。でも膝の関節が、ギーギーと音を立ててこすれて、痛くて、歩くのが遅くなった。
卒業して、東京のデザイン学校に通うと、首と肩と背骨が痛くなって、膝が曲がって、歩く速度が半分になった。転ばないように下を向いて歩くと、一緒に歩いてもらえなくなった。薬を飲む度に痛みがひどくなって、薬を減らすと高熱と激痛で起き上がれなかった。いつも全力疾走したように疲れて、心臓の鼓動が早くて、時々記憶が消えて戸惑っていると、「怠けている」とか「嘘つき」と言われた。
1年間通うと決めて、1年経った時に限界が来て学校を辞めたら、すぐに歩けなくなったけど、もう誰にも会わなくても良いと思うと、ホッとした。

【歩けなくなること】- 歩ける人と同じようには動けなくなって、同じ目の高さで話せなくなると、どうやって話せば通じるのか分からなくなった。私を見るのが痛々しかったのかもしれないし、どう接したら良いのか分からなかったかもしれないけど、面倒に感じる人もいた気がした。人の気持ちを敏感に感じ取るようになると、人を信じられなくなって、弱って、歩けなくなった自分の姿を見られるのが嫌だと思った。気を遣われて、私の前だと話されない話題が出来たのを感じた。私に会いに来る人はいなくなった。

【トンネルの中】- 少しでも体を動かすと激痛で、四六時中拷問されているようで、泣いていると、表情と感情と言葉と、少し記憶をなくして、体が動かなくなって、寝たきりになった。もう誰にも会いたくないと思ったのに、一生、部屋の中で、何も知らないまま、何も経験できないまま、私の存在は世間から忘れられて、誰にも知られずに死ぬのかと考えたら、怖くなった。暗くて、長くて、出口が見えないトンネルの中にいるようだった。

【笑うこと】- ある日、何かに笑わされた。私が笑ったのを見て、いつも暗い顔していた両親が、顔を見合わせて嬉しそうに笑ったのを見てから、笑えるようになろうと思った。毎日、テレビを見て、声にして笑う練習を続けると、だんだん笑えるようになって、本当に笑えるようになった。少し体の痛みが消えて、少し座っていられるようになって、少し人と話せるようになった。

【好きなこと】- 鉛筆を持てなくなっていた。絵を描きながら手に持つ練習をすると、手が動くようになって、座っていられる時間が増えた。花の絵をたくさん描いた。通信教育で絵の勉強をして、絵を描く仕事をしたけど、自分の絵の価値が分からなかった。働いた事がなくて、健康な体じゃないと、交渉ができなかった。人から障害者と言われて、自分が障害者になったと知った。

【インターネット】- 父が仕事の為に買ったパソコンで、インターネットのチャットを見つけた。自分の姿を誰にも見られずに済むから、見た目や、性別や、歩けるかどうかを、誰も気にせずに、普通に話してくれて、人として扱ってもらえた。友達になってくれる人達が大勢できて、私の性格を褒められた。私の性格は、自分が思うよりも良いのかもしれないと、少し自信が持てた。

【インターネットの友達】- 好きと言ってくれた人に、勇気をふり絞って「歩けない」と話したら、呆気なく受け入れられて、歩けないと話すのが怖くなくなった。急に会いに行くと言われて、出かける服がなくて急いでカタログで注文した服を着て、伸びたままの髪と、化粧品がなくて、化粧をできなかった私を見られると、がっかりされた。人の態度は見た目で左右されることを実感した。でも家から外に出る勇気をくれた恩人になった。
わたしが人に会ったのを知った友達が、会いたいと言ってくれると断れなかった。実際に会うのは怖かったけど、友達は会っても態度が変わらなかった。インターネットから外に出た私には何もないのに、友達でいてくれるのが不思議だった。

【人に会うこと】- 病院のリハビリで障害者の友達ができて、リハビリの先生達が、皆と一緒に連れ出してくれると、少し人が怖くなくなって、たくさんの人に会えるようになった。
障害者に訪れるチャンスは、3年に一度しか来ないと感じたから、誘われたら絶対に断らないと決めた。ボランティアを手伝だったり、主治医達と韓国の視察旅行に行くことになったりした。

【たくさんの壁】- リハビリの先生が友達になってくれて、うまく話せない私を待ってくれたり、遊びに連れて行ってくれたり、困っていることを解決する方法を、一緒に探してくれたりしたけど、見つからなかった。車の免許を取る方法を、一緒に探してくれたけど、あと少しの所で方法が途切れた。結婚の話をする人がいたけど、結婚できる方法が見つからなかった。障害を持っていると、禁止されていることが多すぎて、何もできない仕組みになっているように感じた。

【鍵を握る人】- 偶然、ヘルパーと言う仕事の人と出会って、制度を知って利用すると、普段、困っていた事が解決して、家族の手を借りる事が減って、行きたい場所へ出かけられるようになった。普通の人のように扱ってもらえて、新しい友達が増えて、仲良くしてくれる人が出来て、毎日が楽しくなって、障害を持った人達とも知り合って、障害者の研修を受けられて、勉強が出来るようになった。

【電動車椅子のこと】- 相談員に紹介された業者に、電動車いすを作ってもらった。
乗ると、体が痺れて痛くて、少しの時間しか乗れなかった。人から体に合ってないと教えられて、作り直しの申請をすると、役所をたらい回しにされた。話し合っても、何度もあきらめるように言われるだけだった。助けてくれる人は殆どいなかったけど、少しずつ専門家が集まった。県知事に全部書いて送ったら、再度、話し合いが開かれて、あきらめるように言われたけど、一緒に行った専門家が、一言言ったら、作り直せることになった。
二台目の電動車椅子は、専門家の人達と、若い作業療法士達と、新しい業者が、一緒になって作ってくれて、やっと自分の電動車椅子が作れて、嬉しかった。
電動車椅子が出来たら、また歩けるようになった気がした。

【出発】- 何かが変わればいいのにとか、夢があると言いながら、何もしない人がたくさんいた。何も変われなくて、何も出来ない人の方が多かった。ずっと同じ場所にいたかったけど、私の居場所はなくなって、追い出されるようで寂しかった。自分が変わる事は、周りの人の圧力になる事があるのかもしれないと思った。
研修で知り合った障害者達の知識は、一人で生活を始めなければならない私を助けてくれた。
ずっと口を聞けなくなっていた母と、仲直りして家を出た。

はじめに

このブログは、発症した頃からのことを私の分身の”まりす”に語ってもらいながら、私は解説で実際に起こった出来事を語ります。

まりすは、私が健康だった体と人生を失くした後に、自分を取戻して新しく成長するために人生のお手本になった素直で自由な「幼い頃の私」です。

”くるまリス”は、まりすの不自由な足に代わって姫だっこして歩く大きなリスです。解説では、電動車いすが私の足の代わりになっています。

【発症~出発編】と【到着~生活編】は、実際に起こったことの時系列に沿って進んで行きます。物語によっては、現在進行中で成り行きを見守っている出来事もあります。

【発症~出発編】は地方での生活の話を中心に、【到着~生活編】は都心での生活の話を中心に書いています。その時の代表的な出来事を、おおよその時系列にして短くまとめてあります。

これから書いて行くブログには、この時系列を軸に、更に詳しい出来事と、制度の事、生活の事、周りの人との関係、知ったことや、体や心の事など、書ける範囲で書いて行く予定です。

このブログの目的は、障害の有無を主なテーマにするというよりも、私が経験したことが、似たような状況で困っている人や、情報が必要な人の資料になることです。乗り越えられないように感じる問題に向き合う方法や、対立だけではなくて和解を考えたり、あきらめずに済む方法などを、私なりに考えて、行動して来たことが、読む人の役に立つといいと思います。

くるまりすの世界観や私の表現が、生きる環境によって偏った表現になることがありますので、ご理解の上お読みください。
誹謗中傷や悪意を感じるコメント等は固くお断りします。

(最終更新2021/05/19)